発見する器

日常の考察、真実の追求、感性にピンと来たもの、好きな音楽。

四次元にかんするアイデア ―“媒体”と“情報”が分かれた世界―

 早速更新が遅れてしまった。しかし、プレッシャーを軽減するため、反省はしないことにする。

 私は四次元や異世界、宇宙、あるいは量子にかんする世界が好きである(もちろん、UMAやUFO、ムー大陸、月の裏側なんてトピックも大好きである)。なので、そういった未知の分野に対してよく妄想する。

 四次元に関しては、Wikipediaの記事が面白い。gifアニメーションを見ていると想像が膨らむ。

4次元 - Wikipedia

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/55/8-cell-simple.gif/240px-8-cell-simple.gif

 先日も車の中でブンブンとドライブしながら妄想行為にふけっていたところ、ふと閃いた。この現実世界は、広告チックな言い方をすると、「媒体」と「情報」を分けることができないのだな、と。ここでいう「媒体」は、媒介と言い換えてもいい。いや、そもそも物質と呼んでもいいかもしれない。「情報」にかんしても、Web的文脈で言えば「コンテンツ」、ほかには「内容」などと理解してもいい。

 つまり、何が言いたいかというと、この三次元世界では、「媒体」と「情報」は不可分なもので、「情報」を得るためには「媒体」を経由する必要がある、ということだ。インターネット、テレビ、本、漫画、そういったTHE・媒体でなくても、コーヒーを飲むにはマグカップという入れ物が必要だし、「酔う」ためにはアルコールを摂取する必要がある。好きな人や恋人がいなければ恋愛のドキドキした感じは味わえないし、世の中にあるあらゆるアート作品は、何らかの“テーマ”や“感覚”を伝えるための媒体である。そもそも、文字も「情報」を伝えるためのツール=媒体である。

 逆に言うと、媒体を経なければ、情報や感覚を得ることはできない、ということだ。ここまで言えばおわかりいただけるだろう。私のアイデアは、『四次元世界では、「媒体」がなくても、直接「情報」を受け取れる』のではないか、という推測だ。

 我々は、これに似た感覚を知っているはずである。すなわち、「直感」と呼ばれる類のもの。

 もし、直接「情報(感覚)」を入手することができるとなるとどうなるか? いわゆる全知全能と呼ばれる存在になれる。全員そうなれば、知識の価値がなくなる。自分から動かなくても、動作しなくても、感覚を得られることができる。努力して、頑張って何かしなくても、容易に得られる達成感。文字や言葉、ジェスチャーなんかを使わなくても、一瞬でコミュニケーションができる世界。「媒体」の生産に追われることがなくなる。過程がなくなるのだ。いや、言いすぎた。「情報」を得るために「媒体」を利用するということがなくなる。

 この考えをさらに展開していくと、人間の体というものは、情報を受け取るための「媒体」でしかないと言えるようになる。いや、受信装置と言ったほうが適切かもしれない。

 これは、今の現実世界でも同様なのかもしれない。オカルトチックな、あるいは精神論的な、根性論的な言い方をすると、体は受信装置であり、「魂」は体とは別のところにある。Aと、彼のクローンA’は同じ人物か? いや、違う。体=受信装置=媒体は同じだが、乗っかっている「魂」が異なる。体=車とすると、魂=ドライバーのようなものだ。それはマシンは同じだが、全体でみると明らかに違うものである。

 話が逸れた。

 このように「媒体」と「情報」を分けて考えた場合、物理の世界とは、このうち「媒体」のほうだけに言及した学問である。“ブツ”のほうだけを見た世界。一方、「情報」の世界はというと、真の意味では学習が不可能なのかもしれない。文字に書き起こした瞬間、それは「媒体」となるのだから。そういう意味で、非常に感覚的に捉える必要がある。

 ところで、上位の次元が下位の次元に影響を及ぼすことはあるという。前掲のWikipediaの記事のgifアニメーションを見ればわかるかもしれないが、その影響は「ゆがみ」となって現れるという。下位の次元では上位の次元の事象が観測できないが、影響を及ぼしているのだからそれが「ゆがみ」として表出するということだ。ブラックホールなんかもそうなのかしら?

 「情報(感覚)」を「媒体」なしで獲得した場合、この行為は現実世界にどのような「ゆがみ」として具現化するのか。興味があるが、長くなってきたので今日はここで終わることとする。


ブラックホールに星が吸い込まれる瞬間 - YouTube


2重スリットの実験 - YouTube