インスタントフィクションの自己解釈2つめ。
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結論、私の解釈はこう。
『建築士になりたいと七夕に願った子どもに、ちょっとイジワルな町の神さまが釈明する話』
これもこじつけみたいな感じもするのだけれど、以下にそう思い至った理由を載せておく。
この文章は、ざっと読むと父から子へ送った手紙のように見えるのだけれど、
一文目に
子供へ
とあるように、実の子供へ送る手紙としてはあまりにも他人行儀だ。まるでその子供の名前を知らないかのようだ。
そう、この手紙の送り主は、本当にこの子の名前を知らないのである。
つまり、この子は七夕の短冊に、自分の名前を書き忘れてしまったのだ。それを受け取った神さまが、「建築士になりたいとは、けしからん!」と怒っている構図なのだ。
私は君が建築士になりたいと
志していることを心配しています。
この文章も変な印象を受ける。普通は、
「建築士を志していることを心配しています」とか、「建築士になりたいというのは心配です」とか、そういうふうに書くのでは? 「なりたい」のあとにわざわざ「志している」と付け加えるのが変な感じだ。
これを解釈すると、子供が短冊に「建築士になりたい」と書いたのだろう。神さまが、文面をそのままコピペしているから若干違和感があるのだ。
僕は反対した時、君は「医者になれ」と言われた気がしていると思っているが、
そうじゃないんだ。
普通は「僕は反対した時」ではなく「僕が反対した時」と書くだろう。
前の段落でも「私は」とあったが、一人称に「が」ではなく「は」と書くことからして、「僕」を「君」よりも下に置くのはどうしても嫌だという感じが作者から透けて見える。万能感や全能感をアピールしたいようだ。
つまり、神なのである。
また、「反対した時」と過去形であることから、既に何らかの方法で神はこの子供にコンタクトを取っていたようだ。
「子供が思っていること」をなぜ理解できるのかという疑問も、子供の反応を見て分析しているわけではなく、心がそのまま理解できるーーつまり、神だからである。
田舎町なんだから、
親が医者なら子も医者だと思われて
当たり前だろう。
この子の父親はどうやら医者であるようだ。そして田舎町ということだから、おそらく開業医をやっているのだろう。
神の生きる時間は無限に等しく、現世の流行り廃りなど関心もないだろう。「田舎だから、子は親と同じことをすべし」などという前時代的な価値観が令和の現代に通じるべくもないが、神からすればそんなことは知ったこっちゃないのである。
建築士になりたいなんて言ったら、
町の人も学校の友達も、
みんなみんな
理解してくれないんじゃないかと思ったんだ。
ここが神の姑息なところだが、周囲の人々にどう思われるかということを餌にして、露骨に引き留めにかかっている。
なぜ神がこんなに必死かと言うと、この子供が医者を志せば、たとえ医大に進学するためにこの土地を離れても、親の病院を継ぐためにいずれ帰ってくることが予想できる。
だが、建築士になった場合、おそらく田舎町にそんなに建てるべき建物もないだろうし、親がそれ関係の仕事をしているわけでもない。将来、この子供が町を離れてしまう可能性が大きい。
神さまにとって、その土地にどれだけの人々が住んでいて、どれだけ自分のことを信奉してくれるかというのは死活問題だろう。だから、こんなに必死なのだ。
周りの意見や陰口にも耐えられるのか
知りたかっただけなんだ。
子供が「建築士になる!」と周りに言ったところで陰口を囁かれるとは思えないが、前述のように神さまは必死なので、少し誇張してビビらせているのだ。
だが、最後に
この場を借りて誤解を解こうと思う。
と、あくまでも釈明であると念を押しているのは、神さまの御慈悲だろう。
本当にこの子供が「建築士になりたい」と願うのであれば、神さまはそれを叶えるのが責務。ここで「医者になれ〜!」と脅すのは容易いが、それは願いを叶える立場の神さま的には禁忌なのだ。
釈明しつつも偉そうな態度を終始崩さないのも、神であるがゆえ。
「この町から離れていってほしくないから、あれこれイジワルなことを言っちゃうけど、でも、本当に、本当に、本当に! 建築士になりたいのなら、仕方がなく応援するよ… 神だからね…」というのが、この手紙に込められた真の意味だろう。