発見する器

日常の考察、真実の追求、感性にピンと来たもの、好きな音楽。

自分らしさ

研究室のような静かで快適な部屋

 

ゆるいチルなBGMがかかっていて

窓からは弱い光が差している

 

涼しそうな楽な格好をして

椅子の上であぐらをかいて座る

 

Macbookを触りながら

たまに別の机に移動しつつ

仕事をする

 

周囲には1人が2人の同僚

 

まるで研究をするように

大きな声が飛び交うこともない

 

互いが仕事に集中する

 

たまに会話をする時は

コーヒーを淹れて

優しげな雰囲気のなかで談笑する

 

夕方には職場を出て

自転車で家に帰る

 

夕日が遠くに見える


暗くなりすぎる前に犬の散歩に行って

少し涼しくなった夕暮れ時を楽しむ

 

たまには

商店街やお祭り、参道みたいなところを

涼しい格好とサンダルで

奥さんと一緒に歩きながら

食べ歩きを楽しむ

 

周りには楽しそうな人たち

 

休みの日、

カフェに入ってコーヒーを飲みながら

イヤホンをつけて

自分の好きな本を読む

 

姿勢を変えたり

足を組んだり

難しい顔をしたり

空中を睨んで夢想したり

手元のノートにメモしたり

 

疲れてきたなって思ったら

レシートを取って店を出る

 

たまには日差しの中、思い切りランニング

大きな川にかかる長い橋を

風を切りながら駆ける

 

しんどいけれども何かを思い切り発散する

“翻訳”という仕事

“翻訳”的職務

 “翻訳”とダブルクォーテーションで囲っているのは理由があって、ここで書きたいのは外国語を日本語に訳す作業のことについてではなく、「ある領域で生まれたものを別の領域に転換する」という仕事についてだ。

 こういう仕事は世の中にたくさん存在する。例えば、何らかの代理店はまさに中間業者として存在するわけで、メーカーなどの事業会社から、実際に商品を利用する末端の企業や消費者の間に存在することで、“翻訳”の機能を担っている。商品の特徴をわかりやすく説明したり、販売網を活かして商品をより広く流通させたり、事業会社(=A)から末端(B)に至るA→Bというルートの流れを効率化することがその役割である。

 Aから見れば代理店は拡散的、あるいは円滑的な機能を担っており、Bから見ればAよりも身近な存在と言える。

 もっとミクロに見てみると、Web業界におけるWebディレクターやプロダクトマネージャーも「上流から下流への橋渡し」という意味で“翻訳”的職務であるし、システム開発におけるSE、出版業界の編集者、政治家の秘書官、医療業界のMR、一般的な営業部隊なども同様の形態と言える。分業化が進んだ現代では、工程間ごとに“翻訳”的職務が存在すると言っても過言ではない。

 実際のところ、こういう仕事は無数に存在するし、世の中の大半の仕事が“翻訳”的職務であると言える。

どういう意味があるのか? 価値は?

 こういった“翻訳”的職務が受け持つ役割としては、先に書いたように、解説的機能や流通的機能が代表的だが、ざっくり一言で言ってしまえば「次に届ける」である。次の工程に、速く、問題なく届けることが使命である。

 しかし、ここには重要な意味が隠れている。単に「次に届けたらいい」ではなく、より価値を増幅させていくことが必要だ。そうでなければ、後工程においてその“翻訳”的職務は存在価値がなくなってしまう。価値が増幅されないのであれば、A→Bと直接届けてしまえばいいのだから。

 例えば、ある商品を“翻訳”していくとき、“翻訳”的職務を経由するごとに何らかの価値をプラスアルファしていく。ある営業代理店が100人の営業マンを抱えているとしよう。メーカーがある商品の販売をこの代理店に依頼した。だが、この代理店はたくさんの営業マンを抱えているだけで、商品を販売する際にはメーカーが作成したパンフレットを見込み顧客に手渡すだけで特に解説的・販促的機能は持たないとする。

 これは価値があるのだろうか?

 ある。メーカーから見れば営業網の構築という意味で当然価値があるし、見込み顧客から見た場合も「パンフレットが簡単に入手できる」「問い合わせルートを持てる」といった意味で多少ながらも価値があるのである。

 他にも、例えば「ファシリテーションや調整を代替できる」とか、「よりわかりやすく、正確に情報が届けられる」とか、「たくさんの人に広報できる」とか、「割引を受けられる」とか、一般的にはそういった価値が存在する。

 この工程間の価値増幅が、“翻訳”的職務における存在意義として、さまざまな文脈において世の中で喧伝されている。

本質的には何も生み出していない

 ただし、注記しておきたいのが、ここでの価値は「見せかけ」であるということだ。本質的な商品の価値とは一切関係がない。もうすでに商品は出来上がっているのだから。

 本質的には何も生み出しておらず、上の例で挙げた営業会社の営業マンがモチベーションを保つのが難しいのは想像に難くない。

 ほかの“翻訳”的職務についても、企画や要件が上から降ってくるとき、“翻訳”的職務がいかに見せかけの価値を増幅させたとしても(極端に言えば、後工程の人々がその働きに狂喜乱舞していたとしても)、「本質的には何も生み出していない」というモチベーション損失の誘引からは逃れられない。

 これは、他者からの評価という問題ではなく、自己の存在意義に関わる問題だからである。「もしかして、自分がいなかったとしてもうまく事が進んだのではないか?」――この疑問は、その職務に精通すればするほど自覚的になる。あるいは、自己の能力を過大評価し、なるべく無視しようとする。

「価値はある」、だがそれを裏返せば「絶対に必要ではない」――“翻訳”的職務は、根源的にこういう矛盾した構造を抱えている。

 ベターはマストではないのだ。

「性賢説」と「性愚説」

 いわゆる「性善説/性悪説」と同じように、「性賢説/性愚説」みたいなものがありそうな気がしたのだ。

「賢さ」というものをどれくらい信じるか、である。

 賢さを信奉する、賢さのレベルを常に高めようとする人間が性賢説。

 性賢説の人だからと言って、別に正義に属しているわけではないし、悪党もいる。だが、その悪党でもレベルが高く、なんか志があったり、金儲けが高度だったりする。

 世の中の大企業には、この性賢説の人間が多く集まっている気がする。スケールが普通より大きく、良くも悪くも人の力を信じている人たち。

 一方で、性愚説の人たちは、言わば「チンケ」なのだ。目の前のことしか見えず、反射的に行動する。こんなことまさかするはずないだろうってことをする。

 大企業出身の人の本とか動画を見ると、立派なことを説いてはいるが、なんだかしっくりこないなぁと思うことがある。その主張からは「性愚説」の存在が抜けているからかもしれない。

性善説/性悪説と性賢説/性愚説のマトリックス

 既存の性善説/性悪説に、この性賢説/性愚説の軸も加えて整理すると、次のような感じになりそうだ。

  • 性善・性賢:良いことをしたらきっと皆も良いことをしてくれるだろうと信じる。そのために自分の賢さを使おうとするし、賢くあろうとする
  • 性悪・性賢:自分が良いことをしようが、無関係に悪事を働く人間は存在する。ならば、そのことも飲み込んだうえで、物事を進めるために善・悪双方を活用しようとする
  • 性善・性愚:人の善性を信じるが、長期・複雑なことを考える賢さがないため、ただ目の前に対して善行を行う。結果、良いことをしたはずなのに、人に恨まれたり、疎まれたり、批判されたりする
  • 性悪・性愚:この世は悪者ばかりと無根拠に信じ、競争に打ち勝とうと悪事ばかり働く。だが、効率性や計画性、再現性に乏しく、うまくいかない。例えば暴力や嘘ばかりに頼ってしまう

 下の2つがわかりにくそうなので、あえて極端な例を挙げてみると、

  • 性善・性愚:進んで人の仕事を手伝うがミスが多い、簡単に手伝ったり教えたりしてするため周りの人が頼りにしてしまい不在時に致命的なことが起こる
  • 性悪・性愚:ただ虚勢を張りたいためだけにルールを破る、うまくいかないとすぐに暴れたり暴言を吐いたりする

 みたいなことかと思っている。

 こう書くと、性愚説の人々が社会にとって害悪のような感じがするけれど、実は私の考えではそうではない。

そのことを次に。

大企業でおかしな問題が起こるわけ

 細かく書かないが、近年、大企業で様々な問題が噴出している。その結果、記者会見や情報公開の稚拙さなどによってさらに社会的に追い込まれ、二次被害的に大きなダメージを受けている。

 もちろん以前からも大企業で問題は起きていたが、ここ数年は、「こんな立派な会社が、こんなしょうもないことするの?」というような、記者会見で説明するのが恥ずかしくなるような、あるいは大企業だったらその承認プロセスの中で発見できたんじゃないの、と思ってしまうような、しごく“しょうもない”問題が目につく。

「こんなのやってたら、当然いつかバレるのわかってたよね?」とでも言うべき愚かな問題。

 実は、こういう問題が起こる大きな理由の1つに、「大企業には性賢説の人間が多い」というのがあるのではと思ったのだ。

 もし性愚説の人たちが集まる組織ならば、おおごとになる前のもっと手前の段階でやらかしてると思うのだ。

 本当に致命的な問題になる前に、やらかしてしまって社会から叩かれる。ごまかそうとするも拙いやり方のために、かえってバレる。バカ正直に報告して、あらぬ方面まで炎上する(その結果、広範囲に“消毒”あるいは“消滅”)。

 もちろん、中小企業ならば大きな問題は起きない、と言っているわけではない。上記のような、ある種もみ消し・ごまかし続けたうえで雪だるま式に種々の負債が膨らんだ(社会的とも言える)損失にまでは、至らないのではないかと言っている。

 この種の問題の報告を読んでみると、複雑なスキームのように見えるが実は単純、初動を間違わなければそこまで大きな問題にならなかったのではと思うことが多かった。

 そういう意味で、賢い人が組織にたくさんいると、小さな問題が致命的なものに発展しかねないのではと感じたのだ。

 今の社会が、“賢さ”というものをあまりにも信じすぎているのかもしれない。

この世はシミュレーションであるという確信

「シミュレーション仮説」というアイデアがある。

この世界が、ある高度な文明などによって作られたシミュレーション世界であるという仮説である。

私はこの仮説が事実である――というよりも、論理的に考えるとそこに辿りつくのは必然ではないかと考えている。

 

以下のように考えた。

  • 技術発展のためには、「仮説→検証」というサイクルが必要。
  • 検証のために取れる方法はいくつかある。現代では統計が第一の手法になっていると思われる。
  • プロセスとしては、「サンプル数を用意する→時間経過→変化が起きた数/起きない数をベースに計算する」という大まかな流れをとる。
  • だが、統計的な手法には、「サンプル数を多く確保しなければならない」「(変化が生まれるための)長い時間の経過が必要」という大きな2つの欠点がある。
  • また、変数が増えるにつれ計算が複雑化・高度化し、精度も下がる。「もし江戸時代に黒船が来ていなければどうなったか?」などのアバウトな仮説の検証には不適。
  • 文明が高度に発展し、技術力やリソースを潤沢に確保することができれば、わざわざサンプルを用意したりするよりも、この世界を仮想的にコピーした環境を用意し、そこに変数となる存在を埋め込み、結果的にどうなるかを観察するほうが楽(つまりシミュレーション)
    • 検証を行っている元の世界をA、シミュレーション環境として構築した世界をBとすると、丸ごとAをコピーする必要はなく、Bはまずミニマムで構築したうえで、そこに存在する生命体の到達可能性(Bの生命体が到達できる範囲)に合わせて、環境をスケールしていくほうがコスト的に良い
    • Bの時間経過は、Aから見て、可変にする必要がある。つまり、Aの時間経過はBからするとゆっくりに見える
  • さらにB世界で何か変化が起きたとき、起きなかった世界をB’として残すことで、BとB’の違いが検証可能になる。これを無数に行うことで、あらゆる可能性を同時に観測していくことが可能
  • ここまでリソースがあれば、使われなくなった(検証が終わった)BやB’を削除する必要もない。定期的に大掃除するだけ

 

検証精度を求めると、このようにシミュレーション環境を作ることが一番効果的である。もちろん潤沢なリソースが必要にはなる。

だが、文明が今から想像できないほど発展して、シミュレーション環境を作るコストが非常に低いと見なされるようになったら、統計的な手法のように無理くり計算するよりも「同じような環境を丸ごと用意してどうなるか見てみよう」となるのは自然に思う。

 

こうなると、現実世界(A)とシミュレーション世界(BやB’)の割合は1対∞になる。ということは、私たちの世界がAなのかBなのかで言うと、限りなくBの可能性が高い、となる。

 

だから、「この世はシミュレーションである」と半ば確信を持って言える、ということである。

 

補足(オカルト的な妄想)

  • 検証のためのシミュレーションなので、Aから見てBは圧倒的なスピードで進む必要がある。1年が1秒くらいのような。光のスピード、秒速約30万キロはこれに関連している
  • BはA、あるいはシミュレーション世界構築プログラムによって日常的に改ざんを受けている。A住人やプログラムが擬似的な生命体(アバター)として、Bに介入することもある(アヌンナキ的な)
  • Bは有限ではあるが、境界はB世界の住人には感知できない。ここで言う有限とは、物理的な領域だけでなく、認知・情報的な領域も含む
    • B世界住人が境界を感知できかねない状態になれば、シミュレーション世界構築プログラムが自動的にその境界を延長する。その境界を延長する理論は、今日のAIが作り出すようなそれっぽい理論であればよく(つまり辻褄が合わなくてもOK)、B世界住人が決して到達できないことが重要
  • BからするとB’は並行世界的な扱いとなる
    • 各シミュレーション世界は、最終的にはAのサーバのようなところに格納されている。とすると、Aの物理世界において、BとB’は近くに存在している。Aにおける事故や不具合などの影響も受ける可能性がある
    • B住人の記録は同じサーバに格納されているためA世界を稀に感知することがある。これが「すべての人間はつながっている」的な感覚に陥らせることがある
    • B住人が本来侵入できないB’に入ってしまう、みたいな事故が起こることもある
  • Bはあくまでもシミュレーション世界。A住人が見ているBの画面、B住人が過ごしているB世界、Bのベースとなっているプログラム世界はそれぞれ異なる。マリオで言うと、プレーヤーの見ている画面と、マリオの見ている世界と、ゲームが動いているプログラム(機械語)はそれぞれ異なるということ(以下、補足の補足を参照)
  • 結局のところ、B世界の住人にとって「ここが現実か、シミュレーションか」を考えても意味がない

 

補足の補足

A住人が見ているBの画面、B住人が過ごしているB世界、Bのベースとなっているプログラム世界をそれぞれ以下と呼称する。

  • A住人が見ているBの画面: User Interface(UI)
  • B住人が過ごしているB世界:Avatar Interface(AVI)
  • Bのベースとなっているプログラム世界:Program Interface(PI)

A住人は、UIを通じてAVIやPIを観測可能。

B住人は、AVIしか観測できない。UIやPI「らしきもの」があることは何となくわかるものの感知できない(マリオはプレーヤーやプログラムを感知できない)

PIは、AVIにはアクセス可能だが、UIには関与はできない。

 

UI>PI>AVI

 

これがつまり「次元の違い」となる。

UIやPIによる関与の結果、AVIには物理的ルールに反した幽霊や怪奇現象の類が現れることもある。

AVIからUIPIのごく一部にアクセスするための方法はあるが、裏技的な、デバッグ的なものになりかなり特殊である。ただしできないわけではない。

異世界マネジメント・リブート:ホワイトな上司は鋼鉄の体で夢を見るか

AIに小説を書かせたらちょっと面白そうなのができた。続きが気になる。

 

↓↓↓

 

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「これだけ頑張ってるんだから給料上げてください!」

「マネージャー、それセクハラです」

「なんであんな奴を採用したんですか?」

「上司ならちょっとはマネジメントしてくださいよ!」

「今月付で辞めさせてもらいます」

 

 

降り注ぐ罵倒と要求。胃をナイフで刻まれるような感覚に跳ね起きると、シーツは寝汗でびっしょりだった 鏡を覗けば、36歳の男の疲れ切った顔と、側頭部に輝く十円玉大の空白——円形脱毛症が私を迎えてくれる

 

 

IT企業の「名ばかりマネージャー」になって一年 。私の仕事は、上からの無理難題を部下に押し付けるための「調整」という名のサンドバッグになることだった 。誰も目を見てくれない営業会議。味方は胃薬だけ

 

 

そんな地獄におさらばして、私は転職を決めた。

「やっぱり辞めて正解だったなぁ……」

 

 

初出勤の日。初夏の輝かしい日差しの中、私は新しい人生の第一歩を……踏み出すはずだった 視界の端から猛スピードで突っ込んでくる影 。悲鳴。身体が宙を舞う浮遊感の中で、私は奮発して買ったばかりの名刺入れが飛んでいくのを、妙に冷静に眺めていた

 

 


「キミ、死んだんだけどね。もう一回する? 人生」

 

 

気づけば、真っ白な空間にいた。目の前にはフクロウのような顔をした中年男が、巨大な椅子に座ってファイルをめくっている

 

 

「キャンペーン中なのよ。タダでオプション何でも選べるよ。運が良かったね」

 

 

男は軽薄な調子で言った 。私は混乱しながらも、前世の……いや、ついさっきまでの消耗しきった日々を思い返した。 次は、もう管理職なんてこりごりだ。イケメンで、頭が良くて、平和な世界で、誰にも文句を言われず、気楽に、かつ「ホワイト」に生きたい

 

 

私は目を閉じ、理想の姿を思い浮かべた。アニメや漫画のヒーローのような、シュッとした輪郭と無敵の風格——。

「はい、スキャン完了。あー、ここなんかいいんじゃない? ファンタジーだし」

 

 

男がエンターキーを叩いた瞬間、私の意識は再び闇に落ち、そして激しく回転した

 

 


「……起動。システムチェック完了」

自分の声が、妙に無機質なスピーカー越しのように響く。 視界が開ける。そこは薄暗い石造りの部屋だった。

目の前には、緑色の肌をした小鬼(ゴブリン)たちが数人、跪いて私を見上げている。

「あ、主様(ぬしさま)が起きたゾ!」 「お待ちしておりました、拠点管理用魔導端末、一号機様!」

主様? 拠点管理? 違和感を覚えて自分の体を確認しようとしたが、手足の感覚がない。 代わりに、私の視界の隅にステータス画面が浮かび上がった。

個体名: ホワイト・マネジメント・ユニット(プロトタイプ)

種族: 自動自律型魔導ボックス

外見: 直方体(チタン合金製)

固有スキル: 【ホワイトな労働環境(強制)】【メンタルケア・レーザー】【給与計算(魔石換算)】

……え、おれロボ!? ていうか箱……!?

 

 

「スキャンした設定」が、どうやら最悪の形で混ざり合ったらしい。 「シュッとした輪郭」は直方体の角になり、「ホワイトに生きたい」という願いは、部下をホワイトに働かせるための「管理特化型ロボット」として具現化したのだ。

「主様、さっそくですが隣のダンジョンが攻めてきまして。残業代は出るんでしょうか?」 「俺、もう有給溜まってるんですけど、休んでいいっすか?」

ゴブリンたちの口から飛び出す、聞き覚えのある不満の数々。

私は、四角い金属の体の中で溜息をついた(もちろん、音としては排気音が出るだけだが)。 どうやら体が変わっても、私の宿命は変わらないらしい。

だが、今度の私は前とは違う。 私は静かに、その鋼鉄の角を光らせた。

「いいだろう。まずは全従業員のワークライフバランスを最適化する。……逆らう奴には、メンタルケア(物理)だ」

私の、異世界での「ホワイト上司」としての二度目のマネジメント人生が、今始まった。

インスタントフィクション『君へ、ありがとう、恋文、』を自己流解釈

インスタントフィクションの自己解釈3つめ。

動画はこちら。

www.youtube.com

例文はこちら。

 

今回は又吉先生が推敲しまくったために、解釈というよりももはや添削指導みたいになってしまっていた。なので、又吉先生の解釈はもはや知る由もないが、私の解釈は残しておきたい。

これはけっこう辻褄があっているのではないかと、内心思っている。

『命が尽きかけている夫が、亡き妻に宛てた決意の手紙』
※もしくは彼・彼女

 

以下にそう思い至った理由を載せておく。

 

この文章を一読すると、おそらくほとんどの人が「夫が最愛の妻にあてた手紙」と解釈するだろう。そこは同意である。

ただ、妻が存命だとすると、下記の文がちょっとおかしいのである。

今、私は病室です。外は雨が降っています。

当然、妻は看病に来ているだろうから、病室にいることをわざわざ告げるのは変だ。

 

つまり、「私の現状を知らいない妻」に手紙を出していることになる。何かの理由で遠く離れていたとしても、現状を知らせていないのはおかしい。

つまり、妻はもういない=死別している、と想像できる。

 

手紙全体を読んでみても、もし存命だとしたら「こう生きていってほしいという願い」「一人残すことへの痛恨」といった言葉が入ると思うが、それが全くないのだ。

 

おそらく、私はもうすぐ死んでしまうかもしれない、
この世からいなくなるかもしれない、
天国へ旅立つ、お迎えが来る、なんとなく分かります。

妻がもう存在しないことを踏まえると、わざわざ現状をこう書いてある意味も理解できる。

「なんとなく分かります」というのは、もしかしたら「(君がかつてこういう気持ちになったことが、今なら)なんとなく分かります」という意味かもしれない。

 

本当に君が大好きでした。

ここが過去形なのも、妻がもういないことを指し示している。

 

そして最後の注釈。

※最後まで明るく。
※悲しまない様に。

まるで手紙の相手にお願いしているような書き方だが、妻はもういないのだから、これらはどちらも自分宛に書いてあるのだ。特に「(自分が)悲しまない様に」というのは、死に直面した人間として日々悲痛な思いに駆られていることが想像できる。

おそらく妻が亡くなる際に決意したことを真似ているのではないか。

 

そう考えると、この手紙は妻への感謝以上に、死に向かう自分を奮い立たせるための「勇気の手紙」という感じがしてくる。

インスタントフィクション『子供へ』を自己流解釈

インスタントフィクションの自己解釈2つめ。

動画はこちら。

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例文はこちら。

結論、私の解釈はこう。

建築士になりたいと七夕に願った子どもに、ちょっとイジワルな町の神さまが釈明する話』

 

これもこじつけみたいな感じもするのだけれど、以下にそう思い至った理由を載せておく。

 

この文章は、ざっと読むと父から子へ送った手紙のように見えるのだけれど、

一文目に

子供へ

とあるように、実の子供へ送る手紙としてはあまりにも他人行儀だ。まるでその子供の名前を知らないかのようだ。

そう、この手紙の送り主は、本当にこの子の名前を知らないのである。

つまり、この子は七夕の短冊に、自分の名前を書き忘れてしまったのだ。それを受け取った神さまが、「建築士になりたいとは、けしからん!」と怒っている構図なのだ。

 

私は君が建築士になりたいと
志していることを心配しています。

この文章も変な印象を受ける。普通は、

建築士を志していることを心配しています」とか、「建築士になりたいというのは心配です」とか、そういうふうに書くのでは? 「なりたい」のあとにわざわざ「志している」と付け加えるのが変な感じだ。

これを解釈すると、子供が短冊に「建築士になりたい」と書いたのだろう。神さまが、文面をそのままコピペしているから若干違和感があるのだ。

 

僕は反対した時、君は「医者になれ」と言われた気がしていると思っているが、
そうじゃないんだ。

普通は「僕は反対した時」ではなく「僕が反対した時」と書くだろう。

前の段落でも「私は」とあったが、一人称に「が」ではなく「は」と書くことからして、「僕」を「君」よりも下に置くのはどうしても嫌だという感じが作者から透けて見える。万能感や全能感をアピールしたいようだ。

つまり、神なのである。

 

また、「反対した時」と過去形であることから、既に何らかの方法で神はこの子供にコンタクトを取っていたようだ。

「子供が思っていること」をなぜ理解できるのかという疑問も、子供の反応を見て分析しているわけではなく、心がそのまま理解できるーーつまり、神だからである。

 

田舎町なんだから、
親が医者なら子も医者だと思われて
当たり前だろう。

この子の父親はどうやら医者であるようだ。そして田舎町ということだから、おそらく開業医をやっているのだろう。

神の生きる時間は無限に等しく、現世の流行り廃りなど関心もないだろう。「田舎だから、子は親と同じことをすべし」などという前時代的な価値観が令和の現代に通じるべくもないが、神からすればそんなことは知ったこっちゃないのである。

 

建築士になりたいなんて言ったら、
町の人も学校の友達も、
みんなみんな
理解してくれないんじゃないかと思ったんだ。

ここが神の姑息なところだが、周囲の人々にどう思われるかということを餌にして、露骨に引き留めにかかっている。

なぜ神がこんなに必死かと言うと、この子供が医者を志せば、たとえ医大に進学するためにこの土地を離れても、親の病院を継ぐためにいずれ帰ってくることが予想できる。

だが、建築士になった場合、おそらく田舎町にそんなに建てるべき建物もないだろうし、親がそれ関係の仕事をしているわけでもない。将来、この子供が町を離れてしまう可能性が大きい。

神さまにとって、その土地にどれだけの人々が住んでいて、どれだけ自分のことを信奉してくれるかというのは死活問題だろう。だから、こんなに必死なのだ。

 

周りの意見や陰口にも耐えられるのか
知りたかっただけなんだ。

子供が「建築士になる!」と周りに言ったところで陰口を囁かれるとは思えないが、前述のように神さまは必死なので、少し誇張してビビらせているのだ。

 

だが、最後に

この場を借りて誤解を解こうと思う。

と、あくまでも釈明であると念を押しているのは、神さまの御慈悲だろう。

本当にこの子供が「建築士になりたい」と願うのであれば、神さまはそれを叶えるのが責務。ここで「医者になれ〜!」と脅すのは容易いが、それは願いを叶える立場の神さま的には禁忌なのだ。

釈明しつつも偉そうな態度を終始崩さないのも、神であるがゆえ。

「この町から離れていってほしくないから、あれこれイジワルなことを言っちゃうけど、でも、本当に、本当に、本当に! 建築士になりたいのなら、仕方がなく応援するよ… 神だからね…」というのが、この手紙に込められた真の意味だろう。