発見する器

日常の考察、真実の追求、感性にピンと来たもの、好きな音楽。

調子に乗ったあげくに…

 調子に乗って、3つめの記事を投稿しようとしている、私は。1つ目の記事に書いた内容と全く違うことをしようとしている。最初はなるべく軽く考えて投稿も少なめに、気軽に続けられるようにするのではなかったか。初志は1時間で覆った。

 しかしながら、あるいはそもそもながら、今このように3つめの記事の執筆に着手しているにもかかわらず、そこに書くべき題材が浮かんでいなかったりする。だからこうして乱文=思考の散逸化に意識を傾けているのだった。

 そうそう、そういえば最近読んだ中で面白かった記事が、元AV女優であり、社会学者であるらしい鈴木涼美がリテラに寄稿した『「文春」に“AV女優歴”を暴かれた元日経記者・鈴木涼美が緊急寄稿!』だ。既に十二分に話題になった記事である。非常に洗練された文体で、報道した文春を批判しているようにもとれるがそもそもより大きな問題提起を柔らかな語り口で論じているようにも受け取れ、いやいや全部ジョークっすごまかしっすとりあえず意見っすということをさすがに元日経記者を思わせる硬質な文章でくそ真面目に語っているようにも思われた。思わず元の女優名でGoogle画像検索を試してみたぐらいだ。

 この記事を読んで興味を持ち、彼女の唯一の著作らしい『「AV女優」の社会学』をAmazonで検索するに至った。しかしそこでがっかりしたというか、むしろより興味を持ったというか、とにかくまあそのような微妙な感情をそこにあったレビュー記事が引き起こしたのである。そこに書いていたのは、端的に言うと「日本語がわかりづらい、下手だ」という意見。一人だけではない、数人である。これはどういうことなのか。上記のリテラ掲載の記事では、はて、そういう印象を持たなかったが…? 元記者ともあろう人間が下手な日本語の文章を書くはずはない。というと、Amazonのレビューがおかしいのか。だが、批判しているレビュアーの文章も日本語としてはそこそこまっとうなものであり、このような文章を書く者が果たして誤った審判を下すか?という疑問も生じる。

 結局のところ、彼女の著作を読んでいないので私には何も判断できないというのが行き着いた事実であり、たとえワンクリックで購入できる時代とは言え、そこには認知心理学と購買プロセスに関わる問題=私にとってのハードルもあることから、ここから先の追求は難しく断念せざるを得ない。