1967年に発行された『タテ社会の人間関係』を読んだ。
著者は、2001年に文化勲章を受章した東京大学名誉教授 中根千枝である。
50年以上前の本だが、知らなければそんなに昔に書かれたとは気づかないのではないか。それぐらい普遍的なことを書いている。
やや自論に固執している印象を受けたものの、「タテ」と「ヨコ」というシンプルな概念で日本のあらゆる組織を整理しており、その理論はりわかりやすい。私は過去在籍していた会社の中でいくつか馴染めなかったところがあるが、「その理由は何か」のヒントをつかむことができた。
良本だと思う。
個人的に思ったこと
- 日本では会社だけでなく、あらゆる組織で「タテ」の関係がベースになっていると感じた。深層意識にまで刷り込まれており、ここを変えるのは難しい
- リーダーシップ論、マネジメント論が日本では特殊な形をとっており、ある種軽んじられているような気がしていたが(マネジメントの重要性が語られるわりに簡単になれる)、その原因が組織構造にあると知った
- 社交性の欠如が、外交やロビー活動に対する意識の低さ、あるいは嫌悪感を生んでいるのかと感じた。社会全体でのリソースの無駄遣い、カニバリズム
- 昨今のいわゆる「DX」だったり、「企業間提携」だったりは、「タテ」の社会では独特の難しさがあり、まずは組織構造を変えないと難度が上がるのではないか
以下、章立てに沿って特に印象に残ったトピックを羅列していく。
なお、ところどころ筆者が独自の解釈や表現を加えているため、著者の理論を正確に理解するには原著をご覧いただきたい。
1.序論
序論なので割愛するが、本書では日本社会の「社会構造(ソーシャル・ストラクチュア)」を探求することが目的だと述べている。
2. 「場」による集団の特性
- 社会集団の構成要因は「資格」と「場」である。日本人の集団意識は「場」に置かれている度合が強い(ex. 職種よりも会社名)
- それは「イエ」の概念に代表されている(ex. 「一族郎党」という「一族」と「郎党」を分けない表現)
- 同質性を持たない者が「場」によって集団を構成するとき、社会集団化するには「枠」が必要である(ex. 家、集落、企業)
- 枠を強化させる方法は2つある。1つは枠内のメンバーに一体感を持たせる働きかけ、もう1つは集団内のメンバーを結ぶ内部組織を生成し、強化すること
- このようなあり方は、一体感を醸成して枠を強化する一方で、集団を孤立させる。枠の外にある同一資格者の間に溝をつくる(ex ウチ、ヨソ)
- よそ者意識は社交性の発達を妨げる。ローカリズムが強いということ
- 人間関係の強弱は、実際の接触の長さ(ex. 社歴)、激しさに比例しがち。常に新入りがヒエラルキーの最下層となる
- 勤続年数が長くなると、当該人のその集団内での社会的資本の蓄積は自他ともに明確になり、転職に対して当該人および周囲が大きな抵抗を持つようになる。転職した場合、社会的資本がゼロ、あるいはマイナスからのスタートとなる
- 集団を去った者がまた戻ったとしても、昔日のような人間関係を持つことは不可能に近い(ex. Uターン、出戻り社員、育休明け社員?)
- こういった日本的社会集団は、個人に全面参加を要求する。2つ以上の集団に同様のウェイトを持って属するのは困難。保身術としては低質。「場」が集団の条件のため
3. 「タテ」組織による序列の発達
- タテ組織は「親分・子分」の関係。同一資格を有していても序列が設定される
- この序列意識は能力主義の浸透を阻む(ex. 同期意識)
- 大企業ほど強力な序列がある
- 伝統的に日本人は、個人の努力差に注目し、能力差に注目する習慣は低調。能力平等感が根強く存在
- 序列意識は意見発表の場にまでおよび、若い人々が年長者に意見をすると「口答え」ととらえられる。諸外国ではあまり見られない。討論ができにくい要因になっている
- イギリスの大学では、教授・助教授・講師の世界と学生の世界は一線を引いて区別されているが、日本では教授・助教授・講師・助手・学生という「タテ」の関係に重きを置く
4. 「タテ」組織による全体像の構成
- 労使関係も対立ではなく並列の関係にある。真の連帯感が伴わない
- 日本社会では、弱き者・貧する者をそれ相応に遇するのはタブー
- 日本社会では、上層の家々の興亡が激しい。5代以上続くのはまれ。モビリティが大きい
- このようなモビリティは、必然的に同類を敵とする。ヨコの関係は弱くなるばかりか、邪魔な存在になりうる(ex. 同僚に足を引っ張られる、出る杭は打たれる)。同類同士での競争が激しくなり、同類の中でも「格付け」ができてくる
- このような「並存するものとの競争」という性質は、「常に上向き」とし、人々の活動を活発にさせ、仕事の推進力となる
- 一方で、無駄なエネルギーの浪費、社会全体でいわゆる「カニバリズム」を生む。全体で分業という意識が低い
- いわゆる「なんでも屋」のワン・セット主義の会社を生みやすい。会社間が孤立しやすい(ex. 子会社、孫会社)
- 同類集団とヨコにつながる可能性はほとんどない。結果、大集団に入れない同類の他の諸集団(無数の孤立集団。連帯性なし)が同時に存在する
- このような諸集団は、より高次の活動の発展のために必要な「統合された組織」を生む力を持っていないため、必然的に他の組織(政治組織)に依存せざるを得ない。日本における中央集権的行政組織が発達した理由
- 中央から末端まで染み透る行政網の発達は、権力に対する恐怖を植え付けた。「長いものには巻かれろ」という一方、「すべて上からの命令」というものにも生理的反発を覚える
5. 集団の構造的特色
- タテ集団への入団の条件は、成員のいずれかに緊密な関係を設定し、その成員が他の成員に依頼することによって認められる。人間関係がベースになる
- ヨコ集団への入団の条件は、基本的に全員の承認を必要とする。代表的なのは、成員のルールが明確に規定されており、そのルールに当てはまれば自動的に入団を強化するというケース。ルールがベースになる
- タテ集団は開放的であり、ヨコ集団は排他的である。しかし、ヨコ集団は新参者でも他の成員と同列に立つことができる。また、内部で成員個人の位置が交換可能
- タテ集団はエモーショナルな人間関係がベースにあるため、リーダーは固定的で交代が困難。また、一人に限られる
- 大親分の突然の死などは致命的であり、お家騒動を必然的に引き起こす
- また、タテ集団は「乗っ取り」か「分裂」で破局しやすい
- 組織構造として「党中党」が作られがち。派閥が生まれやすい(ex. セクショナリズム)
- タテ集団は、リーダーから末端成員までの伝達が速い。動員力に富んでいる。集団として行動をすぐ起こさなければならない場合、議論の余地なくヒエラルキーによる力関係が優先される
- ヨコ集団はヒエラルキーがないため、成員個々の意見が同じようなウェイトをもって押し出される。論理的にプロセスをとらないと、集団の意識決定ができない
- タテ集団では、ヨコの連絡・調整が困難である。二集団が提携して事を行うのは構造的に難しい
- また、二集団の「合体」は、いずれか一方による他方の「呑流」という形でしか行われない。もし「提携」が標榜されてもそれは表現であって、実際の構造を反映していない(ex. 合併の困難さ)
- タテ集団は、リーダーが成員に突き上げられやすい構造になっている(ex. 稟議制)
6. リーダーと集団の関係
- タテ集団の場合、リーダーは行動を直属幹部の力関係で左右されやすい。地涌に幹部を動かせるわけではなく、彼らに引きずられる。「ディレクターシップ」が欠如している。たとえ「ワンマン」と呼ばれても他の社会のディクテーターより権限が少ない
- リーダーというよりも、その集団の代表者であり、一成員である
- リーダー個々の能力よりも、内外の条件に支えられている
- このような立場に置かれている日本のリーダーがリーダーシップを発揮しようとすると、「強権発動」の形をとることが多い。能力・人格が優れているとよいが、優れていない場合、集団にとって悲劇が起こる
- リーダーと部下のミーティング・ポイント(接点)に一定のルールが存在していない
- リーダーに仕事の能力は必要ない。むしろ子分たちの存在理由を減少するため、マイナスに考えられることもある。人間に対する理解力・包容力が何よりも優先される。リーダーに年長者が多くなる理由
- 幹部がリーダー、あるいは部下の仕事に侵入することが容易な構造になっている。能力ある幹部は幹部のまま大いに羽を伸ばして活躍できる(ex. 神輿は軽いほどいい)
- リーダーの能力でその集団の力を測定することはできない
- 日本ではカリスマ的リーダーは育ちにくい。大石内蔵助的なリーダー像
7. 人と人の関係
- ヨコ集団を成立させる「コントラクト精神」は日本人に欠如している(ex. 辞表をたたきつける)
- 日本のリーダーの主要任務は和の維持
- 論理よりも感情が優先される。議論や批評、真の対話が難しい