今さらながら、英語に取り組んでいる。
学生のときは嫌々勉強していたものだが、こう必要性に迫られて自ら積極的に取り組んでみると、いくつか気づくこと、あるいはとても気になることがあった。
(ちなみに私は勉強しているものの、英語は全くできない。病気なんじゃないかとさえ思っている)
日本語は「共感」重視で、英語は「会話」重視
その中でも一番気になったのが、英語と日本語の語順の違いである。語順の違いが、意味やニュアンスの違いにも及んでいるんじゃないかと思った。先に結論を言うと、日本語は「共感」重視で、英語は「会話」重視の言葉じゃないかと思うわけだ。
例えば、以下の文章を考えてみる。
- 私は傘を持っている。
- I have an umbrella.
これを音声で聞いたとき、日本語のほうは「傘」についての話だと途中でわかるが、英語のほうは最後まで聞かないとわからない。だから、もし途中で邪魔が入ると以下のようになってしまう。
- 私は傘を…ちょっと待って。電話が鳴ってる。
- I have ... Wait a minute. My phone is ringing.
こんな感じになるのかな。
日本語のほうは「私はどうしたのか」が不明で、英語のほうは「私が持っているもの」が不明になる。これは「私は傘を…」という文と「私は持っている」という文を比べるようなものだ。全然伝えたいことが違う。
後者のほうは一応文章としては完結している(私は何かを持っている)。一方、前者は登場人物として「私」と「傘」がいるのはわかるものの、「で、どうなの?」という部分が抜け落ちており、意味不明だ。なんだか余韻がある感じになっている。
「ストーリー」を伝えるのと「情報」を伝えるのは別
これは、ある意味、小説とかストーリーを伝えるのに向く言葉ではないか。完結していないので、続きが気になる書き方だ。
英語のほうは、どちらかというと情報を伝えている。「私は」「持っている」「傘を」。私を中心に情報が広がっていっている感じである。ということは、相手がいる前提である。相手に対して情報を伝える、すなわち「会話」のための言語なのだ。「主張」と言い換えてもいいかもしれない。相手が不在では言語として成り立たないのだ。
では、日本語に話を戻す。ストーリーが伝わると人はどうなるのか? 小説やドラマを見れば、それが「共感」のためだとすぐわかるだろう。「共感」のためには、情報の羅列ではいけないのだ。「私は」「傘を」「持っている」というように、登場人物を挙げて「こうなった」と示すことでストーリーとなる。
「ストーリー」を伝えるのと「情報」を伝えるのは別
繰り返しになるが、「私は→傘を」と伝えれば、「どうするの?」「雨が降っている?」といったことを想像させる。「私は→持っている」と伝えれば、「何を? ペン? 携帯? 傘?」「なぜ言い出したのか?」といったことを想像させる。この違いだ。
以上から、日本語は「共感」、英語は「会話」が、それぞれ強くでていると思われるのである。
察する文化は言葉のせい
先に言った「余韻がある感じ」。これは日本語だと表現しやすい。文末を削って「…」で置き換えればよい。
- 明日早いんで…(このへんで失礼しますね)
- そんなことをする人とは…(思わなかったので驚いた)
このように、日常会話でもよく使う。カッコ内に示したほうが実は本当に伝えたいことであるのだが、この「余韻がある感じ」の表現によって相手に「察する」ことを強制させている。
よく「日本人は察する文化だ」などと言われるが、なんのことはない。言語上そうなっているだけのようだ。
察する文化の問題点
これのメリットは、最後まで言わなくてもツーカーで意味が通じることだ。速いし、簡単だし、言いにくいことも伝えやすい。
一方、デメリットもいくつかあるが、私が考えるに最大のやつは「結果を言わないことに慣れてしまう」だと思う。上のカッコ内のことである。
「結果を言わないことに慣れてしまう」と、「結論を考える」こともできなくなるはずだ。こんなふうに。
- A:ねぇ、来週の旅行、どこ行くか決めた?
- B:うーん…(まだ決めてない)
- A:迷ってるの?
- B:いや、迷ってるっていうか…(調べたけどいいところがなかったなぁ)
- A:じゃあさ、箱根は? 私温泉に行きたい!
- B:温泉かぁ…(気持ちよさそうではあるな)
- A:微妙? じゃあどこがいい?
- B:いや、温泉でもいいよ。
- A:「でも」って何? ていうか、ちょっとは考えてよ。
- B:ごめん…(考えてはいるんだけど)
会話にはなっているが、基本的にAが一方的にしゃべっているだけである。Bは言うこと全てがもやもやしていて、旅行の行先を決めようという態度には見えない(少なくともAからはそう見える)。
Bが使った動詞は「迷ってる」「いいよ」の2つだけである。
決めようとするAに対し、Bはどちらかというと「もやもやしている自分をわかって」という「共感」のためのしゃべり方だ。これでは何も決まらないだろう。このような姿勢は、明らかに問題解決の場、議論の場には向いていない。
ちなみに…
もう1つ気になることがある。英語は「意味のない言葉」が多くないか? ということだ。例えば以下の文。
- 仕事を失った多くの労働者がいる。
- There are many workers who lost their job.
昔から疑問なのだが、「There are」は何の意味があるのだろう? そして「their job」は「job」だけではだめなのだろうか?
「There are」については、英語は基本的に前に前に修飾していくから、最初の1語がないとダメってことなのか? 「そこ→いる→たくさんの労働者→失った→彼らの仕事」みたいに?