発見する器

日常の考察、真実の追求、感性にピンと来たもの、好きな音楽。

社会の窓、割れ窓理論

社会の窓」が開いている男性を目の当たりにする状況は唾棄したくなるほど嫌悪感を催すものだが、実際にはその隙間から何かが垣間見えていることはほぼない。ジッパーがそこまで大きく開くわけではないし、ズボンの生地の立体感が中のものを幾重にも隠している。ただ、「オープンである」ということを知覚するだけだ。下着がモロに見えることはあまりないし、その布の下にあるものが露出していることなど普通はあり得ないのだ。

 

では、何がそこまで我々に嫌悪感を覚えさせるのか?

 

瘴気である。

 

普段は閉じて隠されし秘めたる部位を、我々はそこに見る。中身の姿はわからない。だが、何かがあるのは理解できる。それが瘴気を放つのである。

 

瘴気というのは、その物自体が放出するのではなく、秘めることで放たれるものなのだ。

 

神殿の奥深くに何重もの結界で守られた古い神器、土中に埋めた棺の中へ思い出とともに封じられた遺体、一般人には開陳されない謎の秘密結社の幹部だけが集まる定例会、ただならぬ怒号が毎日響く隣家の家族、会社の給湯室で女子社員が囁かれる真偽不明の噂話、そして社会の窓の奥に秘められた、ここぞという時のみに使用される懐刀。

 

瘴気を放つそれらを見ると我々は開陳して浄化したい衝動と戦うことになるが、それは簡単には叶わぬ夢である。

 

外界に向けて開いた社会の窓

我々はそこに瘴気を感じ取り、さらには見果てぬ夢のロマンを見ているのである。

完全自由人

「観測=監視=視線」が人間の行動のすべての起点となる。であれば、視線を全く気にせず、同時に他者の行動や振る舞いも認識できる人間がいればどうなるか?

 

それが「完全自由人」。

他者に全く干渉されないニュータイプの人間。

 

そんな生物はいない。

エコサイクルの境界を自由に行ったり来たりできる。

人類が視線に縛られないための必然的な進化。

 

そんな完全自由人の奇妙さ、強さはどこにあるか?

 

他者を認識しながらも視線を感じることはないという点が大きな進化であり、

一般人の中に溶け込むように擬態したり、

同調圧力に囲まれた中でも首尾一貫した自己論理を発現できたり、

他者とうまくコミュニケーションを図りながら自分の望む方向へ誘導したり(操ったり)、

そういった行動が容易な人間。

 

そう遠くない未来の話。

 

完全自由人

「観測=監視=視線」が人間の行動のすべての起点となる。であれば、視線を全く気にせず、同時に他者の行動や振る舞いも認識できる人間がいればどうなるか?

 

それが「完全自由人」。

他者に全く干渉されないニュータイプの人間。

 

そんな生物はいない。

エコサイクルの境界を自由に行ったり来たりできる。

人類が視線に縛られないための必然的な進化。

 

そんな完全自由人の奇妙さ、強さはどこにあるか?

 

他者を認識しながらも視線を感じることはないという点が大きな進化であり、

一般人の中に溶け込むように擬態したり、

同調圧力に囲まれた中でも首尾一貫した自己論理を発現できたり、

他者とうまくコミュニケーションを図りながら自分の望む方向へ誘導したり(操ったり)、

そういった行動が容易な人間。

 

そう遠くない未来の話。

 

頭の中に地図を作っていくのが好き

頭の中に地図を作っていくのが好き。

見知らぬ街で散策して、だんだん解像度を上げていくとか。

 

いわゆる地形とか街っていう意味の「地図」だけではなくて、社会の概念構造とかそういうものでも可視化して地図を作っていきたくなる。

 

これ、つまり好奇心ということだろうか。

「体」を大事にしすぎるとどうなるか

こちらの記事、非常に重要なことが書いてあって、大学生の頃に教えてもらいたかったよな、そうだよなと共感する。

saize-lw.hatenablog.com

 

一方で、じゃあこの考えで就職してある程度過ごすと、その弊害も生まれてくるような気がしている。

「外向きの体」と異なることをせざるを得なくなったとき、「見過ごす」という行動を取りがち。

会議で本質的な質問を投げかけて、でもシーンとなって誰も発言しないというのはよくある場面。あるいは、そこで「いや、みんな本心ではどう思ってるのさ?」と質問しても「体」の回答しか返ってこない場面。

そうなるともちろん話は進まず、改善や改革には至らない。

 

「体」はある程度パターン化されているので、どうしても短期的にメリットの少ない意見は主張しづらく、誰もボールを取らないということになりがち。「体」の間にボールがポトリと落ちてしまう。

例えば、社是が「みんなやさしく」となっていて、でも「たまにはちゃんと叱ったり注意したりすることが大事だよね。最近のプロジェクトでもそれが問題になったことあったよね」と思って発言しても、一般論としての同意は得られるけど、じゃあ推進力のある意見が集められるかと言うとそうはならない。だって、会社としての「体」と違うから。

たまに、「体」ではなく本心で語る人がいて、誰も動かなくてもその人自身に推進力があって無理やり改革を成し遂げてしまうこともあるけれど、それはレアケースだし再現性がない。往々にしてそういう人は自分だけ本気でみんながついてこない(あるいは空回り)していると思って会社を辞めるか「体」を守るようになってしまう。

でも、そういう人は推進力があったりするので、本当に変わろうとしている会社とかベンチャーとかだとそのタイプの人を獲りたがったりする。今の朝令暮改の時代だと、そういう人が重要なのもわかる。

 

DXとか新規事業とかうまくいかない問題もこの辺に原因があるのかなと思ったり。

果たして、就職という「入口」での「体」の重要性はありつつも、じゃあどこまで大事なんだ、ずっとそれでいいのか、そんなスタンスでこの時代やっていけるのか、、、といったところが割ともやもやする。

好きなミュージシャンと作家の違い

タイトルのままだけど、なぜか好きなミュージシャンと作家のタイプがちがう。

 

というか、単に性別が違う。

 

好きなミュージシャンは、例えば最近だとAimerとかYOASOBIとか、昔はシャキーラも好きだった。女性ばかり。安藤裕子、Ado、ツユ、ICE等々・・・

YOASOBIなんかはユニットだけど、ボーカルが女性のほうが好みの傾向がある気がする。

 

それに対し、好きな作家は、麻耶雄嵩阿部和重舞城王太郎、木下古栗・・・と男ばかり。

文章表現も一定のクセがある作家なばかりな気がする。

 

全然タイプが違うと思うけど、なぜなんだろうか。

変な話

家に帰るために電車に乗ってました。

座席はすべて埋まっていて、吊り革に捕まっている人も一つおきにいる、そんなまあまあな混み方でした。

 


私がドアに向かって立っていると、坊主頭の高校生がドアの脇に来ました。何か部活をやっているようで大きな荷物の入ったリュックをだらしなく片手に下げて、もう片方の手でスマホを持ってじっくり眺めています。イヤホンをしていたので何か動画を見ているのでしょうか。

 


発車間際のベルが鳴って、おじさんが二人、駆け込んできました。一人はなんとランニングウェアを着ていて、ランニング中にそのまま電車に乗り込んできたようないでたちです。そのまま、もう片方のドアの脇に寄りかかりました。汗をかいて息も切らしていたので、周囲の人はさぞ不快だったことでしょう。

 


反対の脇に立っている高校生のリュックからだらりとしたベルトが床に垂れていたのですが、そのランニングおじさんは気づかずにベルトを踏んだままハアハア言っていました。動画に夢中の高校生も気づいていません。

 


そのすぐ後に、これまた身なりが綺麗とはいい難い初老のハゲて太った男性が、発車ギリギリに乗り込んできました。その男はそのままドアを前にして仁王立ちとなりました。

 


電車が動き始めて私の駅に到着です。私が「こんな親父たちの間を潜って降りるのか、嫌だなぁ」と思いながら、一歩踏み出すと、思わぬ出来事が起こりました。

 


高校生が駅に着いたことに気づき、乗降客の邪魔にならないようにしたのでしょう、自分のリュックを引き上げました。

 


しかしそのベルトはランニング男に踏まれていたので、ドアの前でベルトがピンと張る形になりました。

 


初老の男性はここが目的地だったようで、電車から降りようとした矢先に、ベルトがピンと張られたため、思わず足を引っ掛けて転びそうになりました。

 


彼は足を引っ掛けたのがランニング男の仕業だと思ったようで、激昂した面立ちで振り向くと、ランニング男を睨みつけました。ランニング男は汚い身なりの初老男性に睨まれて、汗だくの顔を戸惑わせていました。高校生は何が起きたかわからず、スマホから目を離して両者を交互に見つめていました。

 


そんな中年男性同士のいがみ合いを尻目に、私はそそくさと脇を通り抜けました。自然の不可思議さを見た、と思いました。

 


さて、この顛末の加害者はいったい誰なのでしょうか?リュックを引いた高校生? それとも気づかずに加担したランニング男? いやいや、足を引っ掛けられた初老男性が足元も注意せずに怒るのが悪い?

 


人生とはかくも不思議なものだなぁと思いました。